拝啓〇〇様

ほかの誰でもない、誰かに向けて

東大生が『努力のサンクコストの呪縛』から抜け出せない理由

みなさまこんにちは、こたけと申すものでございます。現在は日本一周中の真っ最中ですが、今回はこれとは関係のない話を書きます。

 

 

www.kotake.work

 

 

まず伝えておくべきこととして、僕こたけも実は東京大学の学生なんですね。現在は休学中ですが。

 

そういう訳で本日は、東大生である僕が、東大生が縛られ続ける『努力のサンクコストの呪縛』について話したいと思います。

 

努力のサンクコストとはなんぞや、という方も多いかもしれません。端的に言えば、頑張りすぎた結果、将来の戦略を間違えてしまい、人が死ぬという話です。

 

このサンクコストの呪いは間違いなく、僕を含む多くの東大生を苦しめています。呪いはあまりに強力で、時には人を死に追いやります。東大出身の電通社員が自殺してしまった事件、あれです。

 

あの件では、「会社をやめればよかったではないか」という意見が多く見受けられましたが、それは芯を捉えた話ではないと個人的には感じています。「会社を辞められない呪い」というのが確かに存在するのです。

 

「会社をやめることと」と「死」が同義になってしまった背景に何があったか、今日はそういうことも見つめていきたいと思います。

 

今回は深い自戒の意味を添えて記事を書きます。よろしくお願いいたします。

 

サンクコストとは

 

まず、一般的なサンクコストとはどういうものでしょうか。

 

サンクコストとは、回収することができないコストのことです。すでに支払われたお金、そして使ってしまった時間などをさします。俗に『もったいないコスト』なんて呼ばれたりもします。

 

こう書くと難しいかもしれませんが、サンクコストは皆さんの身の回りでも日常的に発生します。

 

簡単な例はUFOキャッチャーです。やったことありますよね?僕も酔った勢いでたまにやるのですが、あれは怖いですね。

 

もう必要以上の金額をつぎ込んでいるとわかっていても「ここまでやったのにここで諦めるのはもったいない」と考えて、500円、1000円と無駄にお金を使ってしまいます。

 

しかし、一度ふと立ち止まって考えてみてください。UFOキャッチャーにおいて、「すでに500円使ってしまったこと」と「追加で500円使わなければいけないこと」の間に何らかの論理的な繋がりはあるでしょうか?

 

500円払ってその商品が取れなかったということは、むしろ、もう500円払っても同じように取れない可能性が高いことを示唆しているまであります。すでに払った500円が返ってくる訳でもありません。

 

しかし「せっかくここまでやったのだから勿体無い」という心理的な作用から、あなたは追加で500円を払うという戦略をとってしまう。そして最後に残るのは、1000円札が1枚だけ減ってしまったあなたの財布です。

 

これがサンクコストと、サンクコストによって間違った戦略をとってしまう例です。他にも、代表的なものをいくつかあげておきます。

 

・チケットを無くしてしまった時、2枚目のチケットを2枚分の値段として考えてしまう人。

・すでに購入した設備を使わない日があるのは勿体無いということで、利益率の悪い曜日でも営業してしまう飲食店。

・既に生み出されてしまっている核廃棄物の処理コストを、原発稼働の反対意見として主張する委員会。

 

 

どうでしょう、他にもたくさんあるので、「あれもそうじゃないか」と皆さんの頭の中にも浮かんでいるかなと思います。

 

これが一般的なサンクコスト概念です。

 

非常に重要なことは、以下の3点です。

 

 ・将来どのような戦略を取ったとしても、サンクコストは発生する

・だけど『せっかく〇〇なのに』という心理的な作用から、特定の戦略を選ぶとあたかもサンクコストを回収できるような錯覚に陥る

・しかしそのようにして選ばれた戦略は往往にして良い戦略とは言い難い

 

 

これらの点を踏まえ、「過去の努力」というサンクコストについて考えてみましょう。

 

「私はこれだけ努力したんだから、この道を選ぶ他にない」

 

これが努力のサンクコストとそのバイアスです。

 

わかりますか?過去の努力と将来の戦略は本質的にはなんの関係もないのに、過去の努力を取り戻すために自分の将来を決めてしまうのです。

 

東大生的に言い換えれば、

 

「これだけ勉強して東大に入ったのだから、超一流企業に就職してエリートになって稼ぐ他にない」

 

です。いかがでしょうか。

 

え?自分は東大生じゃないし、努力のサンクコストなんかに陥ることはない?じゃあ、他の例でも出しますか。

 

「1ヶ月ログインしてきたから、明日もログインしてログインボーナスもらわなきゃもったいない」

「苦労して就職したんだから、1年は勤務しないともったいない」

「3年付き合ってるんだから、もう結婚しないともったいない」

 

 

 

どうですか?まだご自身には関係ない?それはご立派、善く生きていらっしゃる。あなたの垢を煎じて東大生に飲ませてあげたいです。

  

東大生は未来を見据えられない

 

断言しますが、東大生は非常に努力家です。その努力の方向性の是非についてはともかく、努力をしなかった人間は東京大学に入ってきません。受験生の夏休みに毎日10時間勉強する、というのが並大抵ではないのはわかっていただけると思います。

 

しかるに、彼らは尋常でない努力のサンクコストを持っています。サンクコストの多重債務者なんですよ、東大生って。どれだけの時間を受験勉強に溶かしてると思ってるんですか。

 

ここで考えて欲しいのが、サンクコストが多ければ多いほど、その呪縛から解き放たれるのが難しくなる、ということです。100円ショップで買ったものを捨てて断捨離なんて生ぬるい、5万で買った服を捨ててこそ。そういうことです。

 

こういった事情から、東大生は『努力のサンクコスト』に非常に強く縛られやすいのです。彼らの頭の中を支配しているのは、将来の輝かしい希望ではなく、過去の負債の返済です。

 

東大生が、「30までに年収1000万は欲しい」と言っているのを聞いたことがありませんか?ありますよね?ない?ならおいでやす本郷キャンパス。

 

この時、必ずその背後にはサンクコスト回収の計算があると思っています。

 

自分が受験というものに注いだ時間や労力を振り返り、「(これだけ頑張ったのだから)30までには1000万欲しい」と言っているのです。

 

しかしながら、再三繰り返すように、サンクコストとは回収できないコストであり、将来の戦略は過去ではなく現在の価値観や志向によって決定されるべきなのです。

 

そもそも、サンクコストなんて経済学の非常に基礎の話であり、言葉の定義を理解していない東大生なんていません。

 

ですが、彼らは狂ったように口走るのです。30までには年収1000万欲しい、と。悲劇ですね。ただ、困ったことに、僕も30までに年収1000万欲しいという気持ちがあるので、もしかしたらこれは喜劇かもしれません。どうか笑ってください。

 

失敗=死というレッテル

 

ここで、冒頭の電通の件に戻りましょう。僕が思うに、彼女は東大生の中でも優秀な部類だったのでしょう。電通に受からない東大生もたくさんいるからです。彼女は東大に入るのと同等くらいの努力をもってして、電通に就職したのでしょう。

 

だからこそ、彼女の努力のサンクコストは想像を絶するものだったと思います。

 

電通に入り、仕事を続けるということ。これはまさしくサンクコストの結果だと思います

 

しかし、そうだとしても死を選ぶだろうか。死、という選択は、サンクコストの観点からも適切ではないのではないか。と考える方もいらっしゃると思います。

 

ではなぜ彼女は死を選んだのか。それはきっと、彼女があまりに優秀で、進んできた道において成功し続けてしまったからだと思います。

 

東大生のサンクコストの呪いは、成功という幻想によって一層強化されます。

 

東大に入っているということは、幼少期より彼らの努力は報われ続けているのです。勉強したらした分だけ、結果がついてきた、ということです。これにより、「努力は必然的に報われなければならない」というある種の強迫観念が僕らを支配するようになるのです。

 

これは確率のバイアスに近いかもしれません。

 

サイコロを1回振ったら6の目がでました。ラッキーと思いながら、2回目を振るとまたも6の目です。その次もまた6...そういう風にサイコロを振り続けて20年が経ちました。何回目かも忘れてしまったサイコロを振りながら、彼女はこう思うようになるのです。「次も6を出さないといけない」と。

 

「人生はうまくいくときもあればいかない時もある」なんて、小学生でもわかります。しかし、そんなごく当たり前な事が、東大生にとっては、受け入れがたい現実の1つであることは間違いありません。

 

今までうまくいったからといって、次もうまくいく保証なんてどこにもないのです。しかしながら、長い間上手いこといってしまうと、それが次もうまくいく保証であるかのように思われます。

 

このようにして、次第に東大生は、自身が払った多大な努力が最大の形で報われないことに怯えるようになります。だからこそ、より一層悪いことに、失敗を恐れるあまりさらなる努力を重ねてしまいます。借金を返すために別のところから借金するようなものです。

 

つまるところ、努力のサンクコストの呪いは、他の誰でもない僕らの自身の手によって強められていきます。呪いを断ち切るには、自身の手を切り落とすしかありません。

 

ここまでくると、失敗するか、自殺するかという選択が現実味を帯び出すのがわかっていただけるでしょうか。

 

また、この成功の背後では、多くの他者が失敗している、ということも忘れてはいけません。

 

僕たちは、東大に入るまでの過程で有象無象の同級生が学歴レースから落ちていったのを見ています。そして、「自分たちは違う」という感覚が僕らを支配しているのは否定できません。彼らは敗北者であり、自分たちは勝者であると。

 

だからこそ、今ここで負けるのは許されません。他人がレースから落ちていくのを(無自覚にしろ)批判してきた僕らだからこそわかります。レースに残ってるやつが、レースから落ちた奴を、どれだけ見下すかを。

 

結局、学歴レースなんて狭くなり続ける崖の上の一本道を歩くようなものです。果てないエリートコースの先で成功する奴なんて数えるほどで、進めば進むほど道は狭くなるので、99.9%の人間はどこかで道を外れなければいけません。

 

落ちる前に来たみちを戻る、という選択肢はありません。なぜなら”ここまで進んできてしまったからには戻るのは勿体無い”からです。たとえ進み続けるという選択が、自分の幸せや希望と乖離しているとしても、です。

 

自ら進んで道から落ちることもできません。崖の上にいる人間は、崖の下に落ちていった奴をみんなで嘲笑うことで自己肯定し合うからです。「やはり僕たちの進んでいるこのみちは正しかった、あそこは地獄だ」。

 

ですが、目の前で待っているのは、全員では通れない道です。次に落ちなければいけないのは誰でしょうか。自分が落ちる覚悟ができている東大生が、果たしてどれだけいるでしょうか。

 

「他の誰かが落ちてくれ、落としてやりたい」。僕は心からそう思います。僕はユダでしょうか?それとも、地獄に落ちていった彼らがユダでしょうか?皆さんにはどう見えていますか?

 

 

 

気づけば、他人にかけていたはずの呪いが自分にかかっている。気づけば、自分の手で自分の首を締めている。

 

そして、ふと心に問うのです。ここで落ちるなら、いっそ死んだ方がいいかな。

 

ここで劇は幕を下ろしますが、僕ら東大生の人生は続きます。続きます?続くといいですね。終わらせないようにしましょう。

 

 

『転び方』を覚える必要性

 

じゃあ、結局僕ら東大生はどうすればこの呪縛から解き放たれるのでしょうか。当事者である僕には、なかなか答えが出せない問題です。

 

シンプルに考えれば、今まで得たものベースではなく、今の自分が何を欲しいかベースで将来の戦略を決定することです。

 

ただこれが難しいのは、エリートコースってのはそういう風に立ち止まって考える時間を許してくれないんですね。『みんな司法試験受けるか大手就職するかしてるよ?君は?』とけつを叩いてくるので、今の自分が人生において何を求めるかをじっくり考えられません。

 

つまるところ結局、どっかで失敗するしかないのでは、と思います。

 

僕はこれをスキーになぞらえて、転び方の学習と称しています。

 

スキー教室とかいったことある人はわかると思うのですが、スキーにおいてまず最初に学ぶことは転び方です。怪我をしない転び方。その次に学ぶのが、正しい起き上がり方です。

 

東大生というのは、言うなれば、転び方を学ぶことなくリフトを上がり続け上級者コースに来てしまった、そんな人種だと思っています。

 

僕らに足りないのは成功ではなく、正しい失敗と失敗からの立ち上がり方ではないかなと、日々思う訳です。思うのは簡単なんですけどね。

 

とにかく、向こう一年は積極的に転んでいこうと思います。死なない程度に。一緒に頑張っていきましょう。以上こたけ。