拝啓〇〇様

ほかの誰でもない、誰かに向けて

類型化されるのを嫌う多分に類型化されている人々

アルファツイッタラーが「『界隈に所属したくない界隈』の界隈に所属している感はすごい」と言っていた。良い話だ。

 

僕も、類型化されるのを異常に嫌う人びとをそこそこ見てきたが、上記発言に似た感想を抱く。

 

「自分は無宗教だ!例外だ!特殊だ!分類不可だ!」と叫んでいる人びとの、一様で平面的で分類しやすいことよ。

 

「あなたは類型化されていますね」という発言に対して、「自分は違う!」とみな口を揃えていう様は、うーむ味わい深いなと感じる。

 

どうしてこういう何もしないまま自分は違うと信じる人間が多くいるのかと考えたのだが、思うに、do より not do の方がコストがかからないので、大抵の人は後者になるのだろう。

 

キリスト教を信じるためには教育が必要だ。サブカルチャーに染まるためには、行動が必要だ。それらは全てコストである。doにはコストがかかる。

 

そのようなコストを他者の影響なくして自発的にテイクする人間は多くなく、結果としてnot doの方に傾く。

 

コストを取っていない人間には、教育も行動もない。

 

そこにあるのは、ただ「自分は類型化されていない」というコストなき盲信だけだ。

 

思うに、類型化されない人々は不安なのではないか。自分の知らない論理や価値観に基づいて何かを語る人間が、怖いのではないか。無知な自分を恥じているのではないか。そして、自分の身を守るために、「彼らとは違う」というよくわからない話をするのではないか。

 

この辺についてはよくわからない。僕も無知だからだ。

 

僕は別にnot doを悪いとは思わない。が、異常にdo側の人間を批判するnot doは、どうかと思う。

 

「あいつらは所詮あの程度だ、分類可能で劣位だ」と、コストを取っていない人間が偉そうに語っているのをみると、思わず眉を顰めてしまう。

 

個人的によくない癖として、こういう人間を見るたびに、「あなたは類型化されていますね」と言っておちょくってしまう。

 

すごい怒られる。批判を受け入れて反省する所存である。