人生について現状の結論【日記】
最近のこと
ブログの更新がおぼつかない。理由をぼんやり考えていた。
2ヶ月東京を離れていたせいで、前にはある程度抑圧できていた東京の人混みへの嫌悪感を、全くやりきれない形でしか受け止められなくなっていることが、ブログ停止の理由の1つな気がする。
先日、渋谷駅を歩いていると突然猛烈な嘔吐感に襲われて、京王井の頭線ホームのトイレに駆け込んだ。
大学一年生ぶりだったと思う。
人混みへの嫌悪感は、忘れていただけで、なくなった訳じゃなかったんだな。
ほわせぷ's note
ダウナー系の気分になると、ついついホワセプさんのnoteを読んでしまう。
ISIS志願の北大生として名を馳せた(と記憶している)ほわせぷさんだが、彼の人についての冷笑的かつ解像度の高い考察は、ダウナー系の気分の時は麻薬みたいに刺さる。
麻薬はやったことないので、わからないんですけどね。
こんな文章を真正面から読んでいたらダメなので、いつもは斜め読みだが、今日は疲れているので朝五時に真剣に読んでしまった。
純度の高い『最悪...』である。
イタコ芸とゲーム
そのほわせぷ's note のなかでよく読むのがこちら
これほどまでに人を嫌な気分にできる文章、なかなかない。
彼は、人間の自意識のスイッチを押すのが上手だ。
いくつかの節を抜粋する。
彼らがさも目の前にいて、どんな気持ちで日々を過ごしていて、そして特定のお題に対して彼らの行動が手に取るようにわかり、そして臨場感を持って披露できること。それによってのみある人物に与えられた価値というのは表現の形式を持つ。一般に想像力と表現される能力だが、こんな馬鹿みたいなイタコ芸の技巧で簡単に優劣がついていく。
イタコ芸は言い過ぎな気もするが、自意識お怒りポイントを的確についたいいレトリックだと思う。
シンプルに「最悪だ...」 という気分になれる。
あと、これ。
社会で生きることによって、誰かの代弁をするのがどんどん上手になる。代弁できる人間の種類は、ある人にとっては出会ってきた人間の幅広さではあるが、自分にとってはあまり意味のない時間を過ごした証でしかなく、クリア済みのゲームの箱が積んであるような感覚がある。社会に耐えられるかという話は、この手の箱を積む行為/箱を数える行為に耐えられるかという話でしかない気がする。
びっくりした。
僕自身、この文章を読む前から同じような感覚を得ていて、それが綺麗に言語化されていたからだ。
僕も、人生は他者というゲームで遊び、それを積んでいくだけだという感覚がずっとあった。
目の前にある人間がもつ価値観や思想、知能性や文化などを分析し、分析結果に基づいて自分の行動や発言をアジャストすることで、相手から最大のアウトプットを引き出す。
ここでいうアウトプットというのは、愛情とか、信頼とか、共感とか、そういう類のものだ。
相手から最大のアウトプットを引き出すことに成功すると、他者は僕と自分を同一視して、僕が植え付ける価値観や世界に対する解釈を、さも真理かのように扱ってくれる。
ここまでくると、ゲームが終わったなという感覚がある。クリア済みのゲームとして、しかるべきところに積むしかない。
ゲームの箱積み上げる
僕は非常に社会的な人間なので、ゲームの「箱を積み上げる行為/箱を数える行為」に対する強度が高いと感じている。
そもそも、僕の十年来の意識は「両親というゲームをクリアして、積み上げる」ということに向いており、物心ついた頃から人間の皮をかぶった箱でゲームをやっていた感覚がある。
つい最近、両親のゲームがクリアされた感覚をえた交流があって、もうこれ以上ここで遊ぶのはいいかなとなった。
産んでくれてありがとうございました。
まあ、夜に酒を飲んでいるとふと「無意味...」という感情に襲われて死にたくなることがあるが、朝起きれば積み上げた箱を数える行為から1日を始められる。
それくらいにはゲームを積み上げる行為を内面化できた。
ありがたい話だね。
意味いらないな
ほわせぷさんにとって、「ゲームの箱を積み上げる行為」は「あまり意味のない時間を過ごした証」とのことだ。
これは、分かる。
けど僕としては、本質的には人生の全ての事象が無意味に感じられるので、ゲームの箱を積み上げる行為をしていて「無意味だ、損をした」と思う時はない気がする。
そもそも生命は無意味というか無目的であり、生きているから生きている以上の話はないと思っている。
ゲームの箱を積み上げているのは、僕が生きる社会にはゲームがたくさん落ちているからであり、ゲームが落ちていない環境に行ったらゲームの箱を積み上げる行為はしないつもりだ。
山のなかで、一人木を切って過ごしたりしてもいい。
ゲーマーでも、木こりでも、積み上げる無価値のあり様が変わっているだけで、無価値なものを積み上げていることには変わりない気がする。
こういうことを言うと、「生きる意味がないのになんで生きてるんだ」と言い出す輩がいるのだが、ただ人の話を聞くことを習わなかっただけだなと思う。
あとはまあ、意味がないと何かできない人間になると、人生辛いだろうなという感じだ。
誰かのためになるの怖い
僕の人生が、誰かのためになんかなってほしくない。
もし仮に、僕の人生の一部が、ほかの何かを本質的に変化させる影響を有する、もしくはその可能性があるとしたら、恐ろしくてたまらない。
僕が特定の生き方をすることで、世界や他者に対し意味あるベネフィットを生み出せるなんて真っ平御免である。
そうだとしたら、人生に意味ある部分と無意味な部分が出てきてしまい、破滅的な希死願望に取り憑かれてしまうだろうからだ。
僕の人生がなんであろうと、星の位置は変わらないし、人の心がどこにあるかなんてわからない。相変わらず水はうまい。
そういう世界で、よかった。
現状の結論
今、人生のどの時期より生きるエネルギーがある気がする。
人生を無意味だと感じる様になってから、生きるエネルギーが出てくるのは皮肉な感じもある。
明日がくれば生きるし、来なければ死ぬ。
それ以上、何もない。
社会で破滅するまではイタコ芸とゲームをやって、破滅してしまったらきこりになろうと思う。
そんな感じ。